夜帯広の街に行くと、Barを引っ張ったばん馬、馬車Barが歩く風景に出会う。スタートから5年が経ち、地元の人達にも少しずつ根付いてきたこの風景。しかし、ここに至るまでには、若き日の世界一周の経験が大きく影響していた。九州から大阪、東京、そして世界一周ののちに北海道へと北上し、十勝へ根付いた永田剛さんの物語を伺いました。
自然料理研究家・食育講師|千葉県出身。日本大学生物資源科学部農芸化学科卒業。料理の現場で12年働き、新人賞・優秀社員賞を受賞。2015年独立。自主開催講座は30分で満席が続いたり、一般募集前にクチコミで満席になってしまう事も。行政や子育て支援関係、企業からの依頼、自主開催講座、参加人数は述べ2000人。
福岡県生まれ、大阪育ち。東京で映像関連の会社で働いたのち、世界一周の旅へ。仕事で訪れた十勝の風景に魅了され、十勝の地域紙「十勝毎日新聞社」に転職すると同時に帯広へ移住。2019年4月お酒と食を楽しみながら夜の街を馬車でめぐる馬車Barをスタートさせ、夜の街に馬が歩く風景を作り出した。
2019年4月に馬車Barがスタートしましたが、この構想に至るまで、若い頃の世界一周が大きく影響しているそうですね。
永田:若い頃、映画や演劇が好きで、その世界に入りました。2つ目の会社で素晴らしい映画監督に出会い、この世界で頑張ろうとしていたけれど、あまりにも凄すぎて実力差に唖然とし、この人にはかなわない、と心が折れ挫折をしてしまいました。
視野を広くする為に世界を見てみよう、と旅に出ます。たくさんの国に滞在する中で特に心に残ったのが、パキスタンでロバが荷物を運んでいた姿や、バンコクから2時間ほどのスリンと言う街で、象が木を運んだりなどの力仕事をしていた姿でした。
動物がとても人の近くにいて一緒に仕事をしている風景が、強く印象に残りました。
その後、再び東京に戻り働きだしたそうですが、どのようなきっかけで帯広に移住することになったのでしょうか?
永田:再び東京に戻り、芸能の映画ではなく、記録映画や、世界一過酷なモータースポーツと言われるパリダカール、パジェロのプロモーション映像等を企画するプロダクションで働きました。仕事で、更別村の十勝スピードウェイでレースの取材があり訪れた時、帯広空港から中札内村や更別村を通過した時の景色に魅了されました。あまりにも美しくて、家族にポストカードを送ったことを覚えています。それまでも、札幌や小樽など、北海道の他のエリアを訪れた事もありましたが、このような気持ちになったのは初めてでした。
その頃まだ子どもが小さく、東京のような都会ではないところで子育てをしたい、という思いもあり、こんな場所で暮らせたらいいなという思いも湧き上がりました。
ちょうどその頃、インターネットの時代が訪れていました。大学が工学部だったこともあり、パソコンも好きで、これからはインターネットの時代が来るに違いないと勉強し、仕事でも活かし始めていました。
そんな時に、十勝毎日新聞社がデジタルメディア室を立ち上げるということで、東京に求人がきていました。まだ求人も紙媒体の時代です。それならば得意分野なので、帯広で仕事ができる!と帯広への移住が叶いました。
念願の帯広への移住ですが、順風満帆とはいかず、大変な思いをされた事が本当にやりたい事を考えるきっかけになったのですね?
永田:働いてしばらくした頃、北海道でWRCラリージャパンが開催されることとなりました。前職で自動車会社のプロモーションをやっていたこともあり、自分の経験が生かせるのではないかと、社内に新しく出来たWRC推進室へ手を上げました。数年後会社がラリージャパンから手を引いた為、ラリージャパンを引き継いだイベント会社へ転職するも、2008年リーマンショックが起こると徐々にスポンサーがお金を出せなくなり、2010 年札幌開催を最後にラリージャパン自体が一旦幕を閉じました。
とても忙しい職場で、ラリージャパンの開催が幕を閉じた後燃え尽き症候群となり、鬱病を発症してしまいました。何のために帯広に来たのだろう?何をやりたいのだろう?と悩み、原点に戻りました。
そして、ここはとても素敵なところだ!と、観光客の気分で帯広に移住してきたことを思い出しました。
ならば、観光業をすれば、楽しく仕事ができるのではないかと、観光業の勉強を始めました。
ちょうどそんな時に、十勝から起業家を創出するためのプログラムとかち・イノベーション・プログラムの第一期(以下TIP1)が開催されることを知ったのですね?
永田:TI P 1のプログラムを通して、帯広の観光資源は何があるだろう?と考えたときにばん馬が思い浮かびました。帯広には、馬と共に原野を切り開き、畑を耕してきた歴史があります。
パキスタンでロバが荷物を運んでいたように、タイで象が木を運んでいたように、帯広の素晴らしい景色の中を馬が馬車を引っ張って歩いていたら、なんて素敵なんだろうと思いました。
このTI P 1の時の事業発表では、空港から帯広の街までを馬車で数時間かけてのんびりと来ることを想定して発表しました。しかし、どうも周りの反応はいまいち。という事は何かが違うんだろう、そう思って色々と考えを巡らせていました。
TIP1が終わってからも、その時のメンバーとは、定期的に勉強会をしていました。どこに行っても、口を開けば馬のことばかり言っていたところ、アメリカで馬車を見かけた。その馬車の中はBarのようになっていたよ。と言うような話を耳に挟みました。
食べ物の美味しい十勝。お酒と一緒に十勝の味覚を楽しむ事のできる馬車なんてどうだろう?それなら、1時間程度の短い時間で街中を回るのも面白いのではないか。
そんな構想が生まれ、周りに話し始めたところ、今まで反応のなかった人たちが、そんな馬車があったら乗りたい!と言い出しました。
その反応を見てこれだ!やっとイメージがはまった!と思いました。
実際にイメージが固まってきても、街中を馬車が歩くなんて前例もないし、お金もかかる。実際にこぎつけるまでは大変な苦労をされたのではないですか?
永田:周りの人が絶対にやりたいと思わせるような設計図を何年もかけて作りました。馬車Barなのだから、何か飲食物を提供しなくてはいけない。今から飲食店をやる?それはちょっと違う。この街中を馬車が歩くにはどんなルートがいいのか、たくさんの設計図を書きベストなルートを導き出しました。そのスタート地点がNUPKAだったのです。ここならば、飲食物の提供をお願いすることもできる。お申し込みのお客様も、外で待たないで済む。スタート地点はここしかないそう思いNUPKAを運営する柏尾哲哉さんと総支配人の坂口琴美さんに話を聞いてほしいとアタックしました。すると、とんとん拍子に、いいねやろうと言う話になり、あまりの順調さに少しおじ気づいた位でした。
実は、この馬車のスタート地点、道路の幅がNUPKA側だけ少し広いのです。そのため、馬車が止まっていても通行の妨げになりません。これがもしも向かい側だったら、他の車の通行妨げるためできなかったでしょう。
ルートも、ちょうど途中に北の屋台があり、そこでお客様に馬車を降りてもらい、馬に人参をあげたり触れてもらうと言う休憩タイムを設けるのにもぴったりな場所でした。観光客が集まる北の屋台で、馬車バーが止まっていると、乗っていない方も目にしてくれます。
休憩後の帰り道では、広小路を通るのですが、ここは馬の足音がカッポカッポととてもきれいに響きます。ヌプカスタートの左回り、1時間の馬車バー。すべてのピースがピタッとはまったのがここでした。
僕が馬車事業の運営責任者として、プロデュース、営業、馬車ガイドの日々の仕事を行い、NUPKAを運営する十勝シティデザインが金銭面や場所の提供、Barでお出しする飲食物を担う形で馬車Barがスタートしました。NUPKAには、ここを訪れるゲストのために作られた北海道産大麦100%のクラフトビール「旅のはじまりのビール」をはじめ、十勝の食材を使った料理も提供していて、馬車Barにぴったりでした。
馬車Barが始まり、1年もたたないうちにコロナの騒動が起こり、まだ認知度も低かった当時はとても苦労されたのではないですか?それでもその間運行を止める事はしませんでしたよね。
永田:この馬車Barは街起こしだから、できるだけ休まない、そう思って続けてきました。5年経った今、そのおかげで認知がされてきていて、地元の人たちにも知られてきました。うちでもやらないか、そう声をかけていただくことも出てきて、麦音で冬場に馬ソリをしたり、帯広にも徐々にインバウンドが増えてきており、海外のツアー会社から貸切予約と言うことも増えてきました。
私も、友人が帯広に来た時、街の中を馬車で回れるの面白いよとお伝えしますし、丁度この取材をさせてもらった当日、知人が今日知り合いが帯広に来るから、馬車バー予約したのと言う方に偶然で会いました。
これから永田さんが目指しているのはどんなことでしょうか?
永田:街中にもっと沢山の馬がいる風景を想像してください。旭山動物園に行きたいから、旭川に行こうと言うように「馬車バーに乗りたいから帯広に行こう!」という声が聞こえてくる日が目標です。それが帯広に行く理由になるようにしたいのです。