オリンピアン「スピードスケート元日本代表」という肩書だけでなく、筑波大学大学院でスポーツマネジメントを学び、アメリカ代表チームのアシスタントコーチを歴任するなど、多角的にスポーツを捉える視点を持つ出島茂幸さん。2010年、バンクーバーオリンピックのスピードスケート日本代表として世界の舞台に立った彼は、いまスポーツの新たな可能性を追い求め、北海道・十勝の地でプロジェクトを始動しています。ちょっとクールに見えて、その内側には熱い闘志が燃え続ける――。そんな出島さんの“人生のサーキット”を、徹底解剖していきましょう。
出島 茂幸|でじま しげゆき
1982年生まれ。北海道釧路市出身。釧路市立鳥取西中学校、道立釧路商業高校、専修大学。2010年バンクーバーオリンピック スピードスケート日本代表。筑波大学大学院でスポーツマネジメントを学び、修士(体育学)取得。JOC海外研修事業でアメリカ代表チームアシスタントコーチを歴任。一般社団法人スポーツヒューマンディベロップメント(SHD)代表理事。現在は帯広市を拠点に、帯広市の認定を受けた総合型地域スポーツクラブ・SHDスポーツクラブの運営や、子供達の運動能力アップクラスや初心者から競技者までのスケートクラス、多種目・多世代に向けたスポーツプログラムを展開している。
――スケートと出会ったきっかけは?
出島さん ぼくが生まれ育った釧路は“アイスホッケーのまち”でした。街中の友達がみんなアイスホッケーをやっていて、防具を着けて滑る姿がめちゃくちゃカッコいい。最初は『ぼくもあんな風になりたい!』と思っていたんです。両親曰く「毎日遅くまで滑っていたよ」と言われるほど、毎日リンクに通っていました。でも全然、上手くならなかったんです。
当時、スピードスケートを滑っている人は少なく、小学生の頃は冬になると“学校行事的”にスピードスケートがある程度で、特に本格的に取り組んでいたわけじゃありませんでした。サッカーをしながら、寒い時期だけスケートをやるみたいな感覚ですね。
ただ、ある日、兄の友達が履いていたスピードスケート用の靴に興味を持ったんです。それを借りた瞬間、驚くほど速く滑れて「これ、すごいぞ!」と。そこから“速さを求める”刺激にハマっていきました。
――速くなりたい気持ちが強かったんですね?
出島さん 単純に“クラスで1番になりたい”っていう少年っぽい欲望ですね(笑)。最初は天狗になって、「もう学校で1番だから釧路全体でも勝てるかも」なんて思ってた。でも現実は甘くなくて、釧路の大会では全然勝てなかった。そこで本格的に練習に取り組むようになっていったんです。
――中学時代は部活ではなかったそうですが?
出島さん はい、当時はギターを弾いたり遊んだり……正直、夏のオフシーズンはほぼ練習しないまま過ごしていました。冬だけ頑張ればいいや、っていう甘い考え。でも、高校に入ってからは状況が変わります。釧路商業高校の部活って強制的に「夏のトレーニング』があるんですよ。これが本当にキツかった。だけど、夏に本気で取り組むことで冬にめちゃくちゃ伸びるんだってことを身をもって学びました。全道大会でも上位に食い込むようになって、“出島”の名前が少しずつ知られるようになりました。
――一気に才能が開花した印象です。要因は?
出島さん 高校のコーチや先輩がアツかったのも大きいです。「倒れるまで走ってみろ」くらいの勢いで追い込まれる。あと、“古豪”と呼ばれる伝統があって、過去には何人も五輪選手を輩出していたんです。そういう空気に背中を押されて「オレももっといけるかも」と本気になれたんでしょうね。
ただ、高校2年で伸び悩んで“もうこれ以上は無理かな”と思った時期もありました。その悔しさをバネに、3年時にはさらに練習量を増やして、朝練・放課後・夜までトコトン。結果的には記録が思うほど伸びずに苦しんだ時期もあるんですけど、その粘りが次へのステップになったのかなと。
――進学先の専修大学ではどうでしたか?
出島さん 実は本命だった大学に行けると思っていたんですが、高校3年の成績が伸びずスカウトが難しくなっちゃって……。最終的に専修大学でお世話になることに。名門だけあって、科学的な練習理論が進んでいたし、前嶋先生という低酸素トレーニングの権威がいて、“目からウロコ”な技術を学びました。
大学1年のときに全国大会で3位に入れたのも、その練習メソッドのおかげだったんです。そこから“日本代表を意識する”レベルに近づき、少しずつ世界が広がった感じですね。
――19歳で早くも五輪に?
出島さん 五輪代表選考には挑戦していました。ただ、実際には19歳での出場はならなかったです。ぼく自身は、大学卒業後から社会人スケーターとして国体や全日本選手権に出場しながらステップアップしていきました。とはいえ、すぐに結果が出るわけじゃなく、スポンサーを失うなど苦しい時期もありましたね。
――苦難を乗り越えて、ついにオリンピックへ!
出島さん はい、27歳のときにカナダで開催されたバンクーバーオリンピックに出場しました。最初は「五輪代表になること」が目標だったんですが、結果から言うと“最下位”に近い順位で終わってしまったんです。
そのとき痛感したのが、「オリンピックで勝ちたいなら、ちゃんとメダルを意識しなきゃダメだ」ってこと。代表に選ばれること自体をゴールにしてしまっていた自分がいて、メダルを意識した時期も遅く、世界トップとの差を埋めるための4年間を本気で設計できていなかったんです。
――そのあとのモチベーションはどうでしたか?
出島さん 正直、ふっ切れませんでした。ずっと夢にしていた舞台で悔しい思いをして、しかも次の目標を見いだせなかった。ナショナルチームのレベルにも戻れなくなって、2年間はダラダラと過ごしてしまったんです。「体の怪我」など体のトラブルもあったし、すべてが空回りする感じでした。
――その閉塞感をどう乗り越えたのですか?
出島さん “もう一度勉強し直そう”と思ったんです。そこで筑波大学大学院に進み、スポーツマネジメントを学びました。スポーツって選手の世界だけがすべてじゃないし、社会にはいろんな仕組みがある。自分の価値観をリセットしながら、柔道の山口先生やJOCの方々と話して大きな視点を得られたんです。
さらにJOCの海外研修事業でアメリカ代表チームのアシスタントコーチを任されるチャンスも来ました。まさか英語もロクにできない状態でコーチ業務をやることになるなんて。でも、アメリカのナショナルチームでは“コーチと選手がフラットな関係”で、競技だけじゃなくビジネスもフラットなんですよ。すごく衝撃を受けましたね。
――帰国後は帯広に拠点を移した理由は?
出島さん ぼくは釧路出身なんですが、帯広には大きな屋内スケートリンク“明治北海道十勝オーバル”がある。そこを拠点にしたほうが選手育成や教室の運営など、いろいろなプロジェクトをスムーズに進められます。2018年に一般社団法人スポーツヒューマンディベロップメント(SHD)を立ち上げ、2023年から本格的に新規事業として“スポーツをもっと身近に”をテーマに動き出しました。
――現在のプロジェクトについて教えてください。
出島さん 「帯広市認定総合型地域スポーツクラブ・SHDスポーツクラブ」で子供たちに運動やスケートを教えながら、トップ選手のサポートをしています。スケートのトレーニングは多岐に渡るので、その知識を他スポーツへ変換できるんです。いまは新しい取り組みとしてプロテニス選手へのフィジカルサポートを行なっています。
スケートの枠を超えて日本のスポーツが全世界へと広まってほしい、そのために自分の知識を幅広く活用したいと考えています。以前の日本では、スポーツ指導の現場がボランティア頼みになることが多かったけれど、プロが関わる意義をしっかり伝えて、対価をいただきながら高品質な指導を提供できる土台を作りたいです。
スケートって冬季スポーツのイメージが強いけど、実は陸上トレーニングや基礎体力づくりなど、いろいろなスポーツに通じる要素があるんですよね。だからこそ、「スケートだけが目的」じゃない多くの人たちにも楽しんでもらえるプログラムを企画していきたいと思っています。
――今後のビジョンや目標は?
出島さん 十勝の皆さんの“健康づくり”や“競技力向上”をトータルサポートする――そんなコミュニティを育てたいんです。スケートの技術だけでなく、スポーツマネジメントや海外で学んだコーチング理論を生かして、“スポーツが身近にある生活”を広げたいですね。結果として、地域が元気になり、人と人が繋がっていく。オリンピックの舞台で学んだ“世界の本気”と、アメリカで体験した“新しいスポーツ文化”を掛け合わせながら、次の世代にバトンを渡していきたいです。
「オリンピアンだから、すべてが順風満帆だったんだろう」――出島さんの言葉を聞けば、そのイメージはガラリと変わるはず。思春期の伸び悩み、大学での挫折、スポンサーを失った苦悩……何度も浮き沈みを経験しながらも、彼は“もう一度学び直す”という行動力で次の扉を開いてきました。
そしていま、舞台を北海道・十勝へ移し、“プロスポーツ指導”という新たなビジネスモデルに挑戦。帯広のスケートリンクから、地域の健康や子どもたちの未来を根っこから支えようとしているのです。その姿には、アスリート特有のストイックさと、世界を知ったコーチならではの柔軟性が同居しています。
「氷上で学んだことは、人と人が一緒に走る力になる」――そう語る彼の信念は、これから何を生み出すのでしょうか。五輪を目標に走り続けた日々の先にある、さらに大きな“ゴール”へ向かって、出島茂幸さんの挑戦は続きます。
その姿はあまりに“クール”で“スタイリッシュ”――でも、彼の内面はもっと“熱”を帯びています。頑張ってみたいあなたも、立ち止まっているあなたも、きっと彼のストーリーから“一歩踏み出す勇気”をもらえるはず。
さあ、あなたも氷の上で描く新時代のラインを、一緒に見届けてみませんか?