北海道十勝、豊穣の大地が生んだ一期一会の対話。地方創生を牽引する企業「そら」。今回は、米田代表が野村證券時代に担当した十勝在住の元顧客「高橋洋太」さんです。なぜ「そら」に入り、投資戦略・運用責任者となったのでしょう。(取材:三浦豪 / 記事・写真:スマヒロ編集部)
株式会社dandan 代表取締役 | PwCの戦略コンサルティングチームStrategy&、ベンチャーキャピタルの Reapraグループを経て、2021年に株式会社dandanを創業。人や組織は「だんだん」変容するというコンセプトで、企業研修や経営支援、コンサルティングを行っている。
2020年4月、縁もゆかりもない十勝・帯広で元野村證券の米田健史さん、水野彰吾さんと元日本生命の林佑太さんらが立ち上げたのが地方創生ベンチャー「株式会社そら」です。今回は、地元・帯広の建設会社の社長であり、米田さんとは野村證券時代の証券マンと顧客の関係から、そらの仲間となった高橋洋太さんにお話を伺います。
北海道大学卒業後、2002年高橋建設株式会社に入社。2006年に高橋建設株式会社代表取締役に就任。2022年3月にそらの取締役COOに就任し、現在は投資戦略・運用責任者を務める。
三浦 高橋建設の歴史で言うと、高橋(洋太)さんは何代目に当たるんですか?
高橋 3代目です。正確に言うと4代目になるらしいのですが、岩手県から開拓期に移住してきて会社を興したのは曾祖父なのですが、高橋建設という社名にして会社組織となったのが祖父の代からなんです。
三浦 なるほど。それぞれ、お祖父さんの記憶はあるんですか?
高橋 祖父についてはありますね。祖父は浮世絵が好きな人で、浮世絵の出版を自分でするくらいの収集家で、ヨーロッパに何度も足を運んでいたほどです。私が物心がついたころの話ですね。当時は、すでに父が高橋建設を経営していたので、祖父との思い出は引退後の「おじいちゃん」としての記憶しかありません。
三浦 お父様が実質的な2代目として会社を継がれたと思うのですが、高橋さんは幼いながらにも「次は自分が継ぐ」という意識はあったのですか?
高橋 ありました。幼い頃から、将来は会社を継ごうという覚悟を持って育ちました。私の父は身体が弱かったので、自分が24歳の頃に帯広へUターンして、28歳で社長に就任していました。就任当初、周りは年配の方だらけで私だけが20代といった感じでしたね。
高橋 ところが、時代の変化の中で厳しい現実をすぐに突きつけられました。高橋建設は、農業主体の公共事業を主に請け負っており、それを専門的に請け負うことで成功していました。しかし2009年の政権交代で、当時の民主党が大幅に公共事業の予算を抑制したことが経営に直撃する形で厳しい時代を迎えます。
ご存じの通り、すぐに自民党に政権が戻ったのですが、将来的に農業主体の公共事業頼みでは、遅かれ早かれ厳しい現実は見えていました。そこで、「今ならば、社員の皆さんに渡せる余力がある」ということで建設業からの撤退を決断しました。その後、投資や金融業としての会社を存続する中で、野村證券さんにお世話になり、担当者として、当時の米田さんと出会うことになるんです。
三浦 2人の関係は、もともとは高橋建設の社長と野村證券の金融マンというところから始まったんですね。
高橋 野村證券とは長いお付き合いがあったのですが、窓口となる社員の方は3年周期で入れ替わるので、仲良くなって面白くなる頃には別れがやってきちゃうんです。ところが、米田さんは違ったんですね。そもそも最初にいらっしゃるときに履歴書みたいなものを何枚も用意して、自己紹介からはじめるんです。そこにまず興味を惹かれたのを覚えています。その後、付き合うなかで「この人はこれまでの証券マンとは違う」と感じていきました。
例えば、株価が下がる予兆があった際に、米田さんは「もう全部売りましょう」と提案してくるんです。もちろん「えっ!全部売って大丈夫なの?」と思うじゃないですか。米田さんの立場としても残高がなくなるんです。それでも、「いや、もう全部売るべきです」と強くおっしゃって、「こういう決断ができる人なんだな」と思いましたね。
そんな中で「ボク、帯広に残ります」と言ってくるので驚きましたよ。理由を聞くと「帯広が好きだからです」ときっぱりと断言するんです。野村證券のエースが「帯広・十勝に残るってどういうことだろう?」とますます、興味を惹かれていったのを覚えています。
三浦 ちょっと得体の知れない感じがありますよね。
高橋 そうそう。そして、「一緒に事業をやりませんか?」と誘ってくるわけです。「そら」の創業当初は、金融関係のビジネスを展開することを考えていたようだったので、建設会社の経営しか取り柄がない自分にとっては、何も役立てないなと思っていました。それでも「一緒にやりたい」と言っていただけたので「じゃあ是非」ということで今に至る感じです。
三浦 一緒やるって決めたときにはどういう気持ちがあったんでしょうか?
高橋 好奇心だけでしたね。帯広に残るって話を聞いたときに「この人は帯広で何をやるんだろう?」と思い、今度は「それを近くで見ませんか?」と誘われたような気がして、だったら近くで見てみよう!と思ったんです。
三浦 林さんは、米田さんに起業に誘われたときは、千葉に家を買ってすぐのことだったそうです。それで2秒くらいで即答したら、奥さんにすごく怒られたとおっしゃっていました(笑)。他の方々も、思い切った決断をして「そら」に参画しているかたが多いようですが、そうさせる米田さんってやっぱりすごいなと思いました。
高橋 人間力というか、人間的な魅力が凄いと思いますね。米田さんといると、私が絶対に会えないような人たちとお会いする機会もどんどん増えました。米田さんを中心に引き寄せられるように人が集まってきていると感じています。
三浦 米田さんのリーダーシップですよね。すごくにこやかで人当たりがいいっていう感じだけではなく、信念があったり正直であったりするところが人を引き付けているんだなと感じさせられますよね。「そら」への参画後は、高橋さんとしてはどういった活動をされているんですか?
高橋 主には会社としての今後の方向性とか、大きな流れを相談して決めていくような役回りですね。フェーリエンドルフをやると決めたときにも、これから一緒にやっていけたら面白いだろうなと思って話を進めたところがあります。
実際にフェーリエンドルフの運営をやっていく中でも、細かいところで、経験の無い異業種だからこそ実現できたと感じるところも多いですよね。例えばリニューアルの際に、海外から資材を輸入するときも、間に業者を挟まず「自分たちでやれば手数料がかからない」という手法で本当に実現してしまったり。こういう判断の積み重ねを見ていると、こっちも「なんか勝てるかもしれない」と思えるんですよね。やってることにすべて無駄がないと感じています。
三浦 高橋さんや西(麻衣子)さんは、地元十勝のご出身で、もともと会社を経営していたという立場からの参画ですが、そういう意味で、高橋さんだからこそバランスが取れてるな、という側面があると感じたんですが、その辺はどうでしょうか?
高橋 私はそれほど社交的な方ではないんです。どちらかというと、父が社交的だったおかげで、帯広のどこに行っても高橋さんの息子ね、という感じで接していただけているのが今も通じているくらいです。自分の存在感や立ち位置がまだそんなに定まっていないので、それを築いていくのがこれからの課題ですね。
三浦 そらが今後どうなって行ってほしいかについて、高橋さんの考えがあればお聞かせください。
高橋 もう少し、先の話にはなると思うんですが、私はそらが十勝の教育にかかわっていけたらなと思っています。米田さんの話に出てきた金融教育で言うと、十勝は大規模な農家さんが多いんですが、稼いだお金をどのように運用したらよいのかがあまり知られていないんですね。パチンコ屋とか飲み屋は繁盛するんですけど(笑)、それだけになってしまうことも多くて。
だから、子どもも大人も含めて、金融教育で、地元でちゃんとお金を回せるようになれば、十勝全体で裕福になるのではないかと。そうなれば、子育てを理由に十勝に移住してくる価値も出てくると思っています。
三浦 子育てするなら十勝!という場所にしていきたいということですね
高橋 そうそう。十勝は環境が良いと思うんですよね。私もそらの仕事をしながら家にいることが多いので、子育てに参加する機会がすごく多くなりました。一方で十勝・帯広は正直、教育面では弱いんですよね。受験の選択肢も少ないですし、一般大学もありません。
でも、いまはインターネットがあるおかげで、十勝にいながらも子どもの教育に少し力を入れるということができるのかもしれません。東京に住んでいたら、受験する、そのために塾に通うということが前提となり、周りがやっているからウチもやらないと、と不安になってくる。このような状態から抜けられなくなりますよね。
十勝では、そういうことはしなくていいんだけれど、子どもの遊び方がゲームだったりYouTubeを見たり、ということばかりになってきていて、せっかくいい環境があるのにもったいないな、とも思いますね。
高橋 娘の話を聞いていると、学校の先生も大変そうだな、と親にも伝わってくることもあるんです。
実は、現在子どもには、毎年2回、アメリカのシリコンバレーにサマースクールに行かせていたりもしているんですが、そこで話を聞くと、やっぱり先生の待遇がいいし、先生がしっかりと尊敬されているというイメージが伝わるんです。十勝にもこうした教育文化を持ってくれたらなあ、と思っています。
三浦 なるほど。それは僕も思うところがあって、東京や、以前住んでいたシンガポール等は、子供の教育という意味での競争環境が激しくて、人生の早い段階で今後が決まってしまうような側面があるのを感じています。しかし、僕の出身の山形や、十勝はそういう価値観も相対的には弱くて、自然の中で伸び伸びと育つことができるという利点はあるなと思います。だからこそ、十勝は子どもを育てる場所として良いなと感じています。公園がたくさんあって、そこで普通にリスが走っているのとかを見るとポテンシャルはすごく感じるんですよね。
高橋 ただ全体的に、公的な教育はそこについてきてこれていないところがある。日本はどうしても未来に向けた投資ができていないところがあって、その最たる例が公共の教育機関なんじゃないかなと思っています。これから、当たり前に受験して、いい大学に入って、いい就職先をみつけて、というのが本当にいいことなのか、と問われるような新しい価値観が生まれつつある中で、帯広や十勝の持っている可能性はかなりあるなと思います。
釧路には駅前に博物館があったり、北見だったら木の遊び場が充実していたりする中で、帯広って子ども向けの遊戯や文化施設が少ないんです。ただ、最近はそれでも良いかなと思うようになりました。
高橋 最近、何もない川や林で遊び場所を探すほうがよく思えてきて、それを感じたのが娘が友達とハロウィンパーティーをしたときでした。Amazonとかで魔女の仮装やらを色々見ていたんですが、結局何も買わずにごみ袋や工作セットを用意したら、自分で作ったもので遊びだしたんですね。
遊び方の決まっている既製品ではなく、自分たちで衣装とか道具を作っている方が楽しそうだったんです。それを見て、子どものために何か用意しなきゃいけないというのは大人の理屈で、子どもたちはなかったらないで遊び方を見つけちゃうんだな、と感じました。まぁ、そらがそこに関われるかはわからないですが(笑)。
三浦 すごく面白いなと思います。なぜかというと、高橋さんがおっしゃったことって、今そらがやっている事業とは関係ないけれど、おそらく個人の関心と、今十勝に必要なものを考えた結果で教育というものが出てきた。教育と言ってもただ学校をよくしようというだけでなく、子どもが育つ環境をどういう風にデザインしていくか、もしくはあえてしないか、という方向性の考えですよね。それって、子どもの教育だけでなく、大人が持っている金融資産をどう使うかというような、金融教育も併せてやっていくような話でもあるのかな、とも思いました。
高橋 今十勝の街づくりとして、藤丸の再建だとか、人の通りをどう増やしていくか、というのにも会社として関わっている思うのですが、そういうのも、最終的には子ども世代を見据えるべきだとお考えなのでしょうし、会社が5年、10年と続いていく中で、高橋さんとしても「そら」としても関わっていけたらいいな、という可能性を、そらに感じられているんだろうなということを感じました。本日はありがとうございました。
地元企業の経営者という立場でそらに参画された高橋さんですが、これから将来、子供たちの世代にとってどのような十勝の環境を残していきたいか?という観点でのお話がメインになりました。現在の事業にとどまらず、十勝をより良くしていくことに幅広く関わろうとする「そら」の長期的なビジョンを伺うことが出来ました。有難うございました!