北海道十勝、豊穣の大地が生んだ一期一会の対話。地方創生を牽引する企業「そら」。帯広に新天地を求めた移住者。当然ながら地方創生ベンチャー「そら」が次々に繰り出す一手にも資金は必要です。同社の舵取りを財務面から支える屋台骨・水野彰吾さんをインタビュー。その知られざる素顔とは?(取材:三浦豪 / 記事・写真:スマヒロ編集部)
株式会社dandan 代表取締役 | PwCの戦略コンサルティングチームStrategy&、ベンチャーキャピタルの Reapraグループを経て、2021年に株式会社dandanを創業。人や組織は「だんだん」変容するというコンセプトで、企業研修や経営支援、コンサルティングを行っている
2020年4月、縁もゆかりもない十勝・帯広で元野村證券の米田健史さん、水野彰吾さんと元日本生命の林佑太さんらが立ち上げたのが地方創生ベンチャー「株式会社そら」です。今回の主役は、株式会社そらの財務責任者の「水野彰吾」さん。
愛知県出身。同志社大学卒業後、野村證券入社。神戸支店や千葉支店での勤務ののち、社内で若手の登竜門とされる従業員組合へ、そこで米田健史と出会う。3年の間、同じ部署で同僚として働いた米田健史社長らと株式会社そらを創業。現在、株式会社そら財務責任者。
三浦 林さんが社長の米田さんの「親友」だったのに対し、水野さんは「戦友」だそうですね。
水野 はい、僕は愛知県出身で、同志社大学卒業後に野村證券に入社し、神戸支店に勤務したのち、千葉へ行きました。その後、従業員組合に配属になり、そこで米田と出会うことになります。
三浦 証券マンになろうと思ったのは何か理由があるのですか。
水野 理由は特になくて(笑)。一番初めに内定を頂いた縁なんです。当時(2009年)は、リーマンショック前でかなりの売り手市場でした。就職するか大学院に行くかで迷っていたのですが、これ以上、両親にお世話になり続けるのもどうかなと思い、就活をはじめたんです。本音は、就職したくなかったんですが…… 。
三浦 そんな本音を持ちながら、野村證券へ入社されて、ギャップを感じることはありましたか?大手の証券会社への就職は簡単ではないでしょうし、激務なイメージもあります。
水野 入社後は本当に厳しいなと感じましたよ。営業で入ると思っていましたが、素質がないと判断されたのか、入社式の前日、取引の管理をする仕事をしてほしいと言われまして。それを了承して、最初は神戸支店に配属されたのですが、1年目の上司が強烈な方でして、文字通り「厳しい」毎日でした。正直、最初の半年間はかなり憂鬱な日々が続いたのを覚えています。
三浦 かなり鍛えられた感じですね。
水野 はい、かなり厳しかったですよ。「ノープレイ・ノーエラー*」、『何かアクションを起こせ』を口癖にしている上司でした。営業のように具体的なわかりやすい目標も無いなかで、新入社員にとってはずっと「何をしたらいいんだろう」と悶々とするような環境でした。あの時の自分の不甲斐なさや会社へ行くのを恐れていた感情は今でも思い出します。ただ、営業主体の会社で如何に自分の役割・存在意義を見出すのか、その方の指導が野村人生の基礎になったとも思います。
*英語で「何も行動を起こさなければ、何も失敗することはない」の意。
三浦 そのような厳しい環境下で、ご自身のキャリアについてはどのように考えていたのでしょうか?早く辞めたいと思っていたのか、それとも耐え抜いて出世しようとしていたのか、実際のところはどうだったんですか?
水野 正直、3年くらいで辞めようと思っていました。ただ働いているなかで、魅力的な方々との出会いが多く、この人たちと同じ目標に向かって働くことにやりがいを感じるようになりました。
三浦 同じ業務であっても、どういった環境に身を置くかによりマインドは大きく変わりますよね。その後、従業員組合へと移られて、そこで出会ったのが?
水野 そうですね、米田ですね。
三浦 なるほど、林さんにもお聞きしたんですが、米田さんの第一印象ってどうでした?
水野 そうですね。野村證券って、ある意味結構狭い社会なんですよ。その中で数字を上げている人が評価される。すると、その数字を上げている人が誰なのかっていうのは、全国にセールスが1万人ほどいる中で、その名前が嫌でも耳に入ってくるんですね。『米田っていう凄い同期がいるぞ』と。初めて会う前から米田の存在は知っていたので、会った瞬間に「この人が米田か」という感じでした。
三浦 すごい成果を出してる人がいるぞ、と。
水野 まさにそれです。できる営業マンって何種類かのタイプがあると思います。「ガツガツ行くタイプ」「スマートなタイプ」とか。それで言うと、米田のことを勝手に「きっとガツガツ系だな」とイメージしてたんですが、会うと柔和で物腰の柔らかさに驚きましたし、それでいて物怖じしない感じにオーラを感じました。
従業員組合での仕事は、業務量がとにかく多く、追い詰められて行く人もいて、そうすると甘えの感情が芽生えたりもするのですが米田は違いました。先輩・後輩関係なく、『ダメなものはダメ』とはっきり、しっかり言える人でしたね。物腰の柔らかさだけでなく、スパッと切りに行くときは切りに行けるような、そうした厳しさを持ち合わせた印象を感じました。
三浦 当時から米田さんは一目置かれる存在だったんですね。そうした関係性から、起業に誘われるまでの背景についても教えていただけますか?
水野 はい、彼が帯広支店に異動して1年くらい経ったころでした。そもそも、米田が辞めるってことを知らなかったんですよ。「米田は野村證券でどんどん上に行くんだろうな」と考えていたので、まず、彼が辞めることを知った時は衝撃でしたね。自分が誘われるよりも「え、なんで辞めるの?」って……。(組合から)異動後の活躍ぶりも知っていたし、少なくとも役員には絶対なるだろうと同期ながら期待していました。そんな彼が「辞める」と聞いた時は「なんで?もったいない」と思ったのを覚えています。
三浦 (辞めるという)報告の後で、誘われたんですね。
水野 そうなんです。『会おう』と連絡を受けた時は「一緒に(組合で)働いていた時期もあったので、その由で退職する報告の連絡をくれたのかな」という程度に思っていました。会う前は「米田が辞めるのはもったいないけど、もう決めたんだからしょうがないね」と思い「東京に来たらご飯でも食べようよ」と返事をしました。
三浦 別れの挨拶かと思いきや、起業に誘われるという。笑
水野 会う早々に『起業するから一緒にやろうよ』の一言です。びっくりしました。しかも『一週間前から水野が夢に出てくるんだよね』なんて話をされて……。正直「夢に出るのは気持ち悪いな、出さないでよ」と思ったんですが(笑)。その後も『いやそれがさ、水野と一緒にやりたいと思ってるから夢に出てくると思うんだ』と続けるわけです。「本当に僕を誘ってくれているんだな」と思い、そこからは真剣に考えました。
三浦 結構、長い時間悩まれたのですか?
水野 いえ、実は意外と悩まなかったんです。自分自身も当時「今のままで働いていても、60か65歳で定年、自分が本当にやりたいことができるようになるのはだいたい50歳になってからと考えれば、このまま会社にいて良いのだろうか」と考えてもいたので、「だったら誘いに乗ろう」と決めました。もちろん、一緒に働いてた時期が3年ほどあったので、その間に米田の仕事の価値観や、考え方だったりを自分なりに理解もしていましたし、何より、自分に無いものを持っていたことをすごくリスペクトしていました。決断の理由の一つです。
三浦 「そら」では水野さんは財務を担当されているとのことですが、水野さんから見たこれまでの「そら」の取り組みはどのような印象ですか?辛かったこととかはなかったですか?
水野 辛かったことはなかったですね。当然、資金繰りとかで大変なことはありましたが、会社勤めのときに比べて自由にやれています。会社員だった時は会社に評価されることを軸に置きつつ、その中でやりたい仕事を見つけるってスタンスでした。我慢の方が多いですし。「そら」の中では、だれにどう評価されるかは関係ありません。「そら」の発展を軸に置きつつ、自分の面白いと思ったことをやれる。それは本当に楽しいと感じますね。
三浦 水野さんのやりがいを感じる部分ってどういったところでしょうか。
水野 自分はどちらかというと人と接するよりは一人でシミュレーションしたり数字をいじったりしている方が好きなんです。事業推進に当たっては、0から1を作り上げるのが得意じゃないことを知っているので、米田が出したアイデアを裏付けしていくというポジションだと思っています。そして、林は人と会って関係性を作ったりするのがすごく得意なんですよね。そうしたところで言うと、地域での存在感は林や米田に広めてもらって、自分はその裏で黙々とやらせてもらうという形で、すごくバランスよくやれていると思います。
ただ、そういった事業推進にすべての時間を充てられれば「もっと事業スピードは速くなるだろうな」と思うんですが、まだまだ小さい会社なので、雑務含めてやらなきゃいけないことがたくさんあって、そういった雑務で一日が終わっちゃうなんてこともありますね。小さい会社ながら、事業が複数あるので、全体の数字を管理する仕組みがまだできていないというのが課題ですね。
三浦 これからもいくつも事業を拡大していく中で、水野さんとしてはそれを支えるような会計や管理の仕組みを作っていくっていうのがテーマになるというわけですね。
水野 そうですね。地域共創と金融という観点でビジネスモデルを作りたいと思っています。金融事業のビジネスモデルは日本ではもう確立されていると思うんですが、人口減少の中で今持ち上がってきている金融教育では、結局収益をあげることについてはあまり触れられていない。僕らは地域共創という観点で、藤丸の再建も含めてやっていきたいと思っているんですが、事業と金融を分けて考えるのではなくて、両輪で走らせるようなソリューションが重要になってくると思っています。
今の日本は提供できる金融ソリューションの地域間格差が大きいという問題があると思っています。そうした意味で、地域の金融資産を守っていくような金融ビジネスはまだまだ余地があるでしょう。しかし、それだけでは、野村證券でやってきたことの延長線上になってしまう。だから我々は金融で下支えしつつも、建物の老朽化の解決や人を集める仕組みも含め解決していくような、両輪でやっていくよう仕組みのモデルとしてやっていきたいなと思っています。
三浦 ありがとうございました。
最初に「人見知りで、あまり新しい人と話すのが得意ではない」と仰っていた水野さんの本心を探る、貴重なインタビューでした。会話が進むにつれ、内に秘めた想いや、フランクな人柄を感じることができました。水野さん、有難うございました!
次回は、株式会社そらの不動産管理責任者、西麻衣子さんです。