「東京ならもっと高い条件を狙えますよ」。Kさんの答えは変わらなかった。50歳を前にした転職で選んだのは、一度も訪れたことのない北海道・帯広。
人は何を基準に人生を決めるのか。一人の男の選択を追うと、働く場所の選び方が少し違って見えてくる。
「転職は何度もしたけれど、不思議と『失敗した』と思った会社は一つもない。どこでも面白い仕事をさせてもらえた。だから『いい人生だったな。良くなかったことは、ないな』と思うんです。」
Kさんは迷うことなくそう言った。その表情は驚くほど晴れやかだった。
仕事を選ぶ時、人は何を基準にするのだろう。年収か。やりがいか。ワークライフバランスか。
その問いに、Kさんは自分の人生で答えを出してきた。
北海道・富良野で農業機械の整備士として社会に出て、営業職を経てIT業界へ。東京ではエンジニアとして経験を積み、その後は事業会社で業務改革や事業の成長に携わってきた。
そして50代を前に、5社目の職場に選んだのが帯広のズコーシャ。社長から、新しい事業づくりと会社の変革を担う役割を託され、帯広での新たな挑戦が始まった。
東京と北海道。都会と地方。その両方を知るKさんの目に、それぞれの働き方や暮らしはどう映っていたのか。話を聞くうちに見えてきたのは、拍子抜けするほどシンプルな基準だった。
株式会社ズコーシャ - TCRU
勉強嫌いを変えた検索システム
Kさんは、北海道の東川町に生まれた。小さいころから勉強が嫌いで、旭川の高校では赤点ばかり。夏休みも冬休みも、補習のために学校へ通った。
「とにかく勉強ができなかったんですよね。嫌いだったし」
進学は無理だ——担任教師に、はっきりそう言われた。親の知り合いの紹介で、農業機械の会社の富良野営業所に入った。整備を1年。それから営業に回り、農道を走る日々が始まった。
1998年頃、事務所にあるシステムが導入された。中古農機を検索するシステムだ。Windows98が出た頃で、フロッピーディスクで情報を更新する仕組みだった。
「それを見たときに、あ、なんか面白そうだなって。そこから、人生で初めて勉強しようって思ったんですよね」
Kさんは会社を辞めた。札幌の専門学校で、情報処理を学ぶためだった。
だが、卒業を迎えた2001年は、就職氷河期の真っただ中。学校から返ってきたのは、思いがけない言葉だった。
「エンジニアを目指すなら、まず北海道を出なさい」
その一言に、迷わず東京で就職先を探した。
当時のKさんにとって、北海道は「いつか戻りたい場所」ではなかった。ただ、生まれ育った土地。それ以上でも、それ以下でもなかった。
プログラムをあきらめた

上京したKさんを迎え入れたのは、日立系メーカーのソフトウェア会社だった。エンジニアとして、大手企業に就業管理パッケージを導入する仕事に就く。飲料メーカー、金融サービス会社——名の知れた企業の現場を渡り歩きながら、その後のキャリアの核となる「品質へのこだわり」「トラブルへの向き合い方」「本質的な原因分析」を叩き込まれた。
「メーカーって、ものを売る会社なので、ひとつひとつの品質管理のプロセスがしっかりしているんです。どうやってソフトウェアの品質を上げるかを学べたのは大きかった」
しかし、当時主流になりつつあったJavaが立ちはだかる。新しいプログラミングの考え方に、どうにも馴染めなかった。
「あ、俺プログラムはダメだなと思って。そこでやめたんです、プログラム」
挫折の話のはずなのに、本人はけろりとしている。
コードを書くより、データベースを設計し、お客さんと話しながら業務全体を整理する。その仕事のほうが自分には向いていると気づいていた。プログラムを書く仕事から、業務とシステム全体を設計する仕事へ。この選択が、のちのキャリアを大きく広げることになる。
妻のひと言で、北海道へ

ある日、妻が言った。「北海道で子育てをしたい」。妻は北海道の旭川出身。同じ北海道生まれとして、妻の気持ちは自然なことだと思った。
当時、プログラムはあきらめたものの、設計の仕事は順調だった。常駐先の大手システム開発会社からヘッドハンティングの声もかかったが、まだまだ技術でやりたいと断るほど、仕事に手応えを感じていた。
「今からすると、結構後悔してるんですよ。そっちの方がより良かったんだろうなって。若かったんだよね、きっと」
それでも、北海道に帰ることに迷いはなかった。東京でのキャリアを捨てることになっても。
「僕は東京の仕事が楽しかったから、別にこのままでもよかった。でも、まあ、いい経験だったよねということで。それまでのキャリアを手放すことに、あんまり抵抗はなかったんですよ」
キャリアを腐らせない

札幌での暮らしが始まった。北海道での仕事探しで一番の条件は、エンジニアとしてのキャリアを腐らせないことだった。
当時の北海道のIT企業に多かったのは、二次請け・三次請けの部分的な仕事。それでは、本質的な成長が望めない。選んだのは、「下請けはせず、一次請け(プライム)にこだわる」という方針を貫く札幌の大手IT企業だった。顧客と直接向き合い、プロジェクトの全体像を見られる環境こそが、北海道に戻ってもキャリアを積める道だと考えた。
妻の本音
ところが、主戦場は東京だった。当時の北海道には、元請けで担える大きな案件が少なかった。家族は札幌、自身は東京に滞在しながら現場に通う長期出張が続いた。会社の制度を利用して、月に2回、週末に札幌へ帰省しては、家の用事を片付ける。
2011年3月11日。Kさんは羽田空港にいた。翌日は、真ん中の息子の卒園式。搭乗を待つロビーが大きく揺れ、飛行機は全便欠航。携帯はつながらない。公衆電話の長い行列に並んで、ようやく妻に告げた。明日までに帰れないかもしれない。
「めちゃくちゃ怒られました。『あんたがそんな仕事してるからでしょ、大して家にもいないで、子供のイベントぐらいちゃんと帰ってきてよ』って。なんか、全部出たんでしょうね」
その夜、奇跡的に空席が回ってきた。最終便で北海道へ帰り、卒園式には間に合った。
事業をつくる側へ

「うちに来ませんか」。札幌のIT企業で任された仕事のひとつに、医療系の事業会社の、中核システムの構築があった。その会社から声がかかった。外から事業会社に関わる立場から、事業会社の内側―当事者へと変わった。これが、キャリア最大の転換点になった。
業界の経験はゼロ。それでもシステム部門の枠を超えて、営業の仕事の組み立て直しなど、幅広い業務を担った。
現場の業務を一つひとつ見直し、アナログな仕事を仕組みへ変えていく。システムを作るだけではなく、業務そのものを改善する立場として、事業の成長に携わった。 新しいサービスづくりでは、仕組みの一部が特許取得にもつながった。
勤め先は東京のまま。単身赴任の生活は、その後も続いた。全国各地への出張も多く、飛行機嫌いなのに空を飛ぶ機会は増える一方だった。虎ノ門のオフィスを出てから札幌の自宅までは片道6時間。それでも月に2回は家族のもとへ帰った。
「移動って、時間じゃなくて距離なんだよって、昔誰かに言われたんです。本当にそうだと思う。年々、身体にこたえるようになりました」
10年近く事業の成長に携わる中で、一つの区切りが見えてきた。次は何に挑戦しようか。自然とそう考えるようになっていた。
家族か、年収か、やりがいか
そのご経歴なら、東京ならもっと高い条件を狙えますよ――。
50歳を前に転職サイトに登録。面談したエージェントに言われた。
「マジかと思って。だけど、いや、北海道に帰りたいんだよね、それは譲れない条件なんだよねって」
条件の良い企業との話もあった。それでも、外から関わる仕事に戻る気はもうなかった。会社の内部で業務構造を根っこから変える。そのやりがいや達成感は、代え難いものだった。
残ったのは、札幌と帯広の2社だった。帯広の会社の社長たちは、帰省のたびに何度も時間をつくってくれた。話を重ねるほど、「この会社なら、自分がやるべき仕事がある」というイメージがはっきりしていった。
行ったこともない町の会社を、なぜ選んだのか。Kさんは、当時をこう振り返る。ホームページを見ても、この会社がどんな会社なのかが、よく分からなかった。
普通なら、減点材料だろう。Kさんはそこに、可能性を見ていた。
「帯広に引かれたとか、そういうのでは全然なくて。この会社で自分が何をできそうか、というイメージだけで来たんです」
まずは、呼吸をさせよう

帯広のズコーシャに加わったKさんのミッションは、既存の事業に代わる、新しい収益の柱をつくること。半年かけて会社の仕事を見つめ直す中で、技術の継承や業務の標準化など、この業界全体に共通する課題も見えてきた。
「誰が担当しても、一定の品質で仕事が進められる仕組み。それをこの会社で形にできれば、同じような課題を抱える会社の役にも立てるかもしれないと思ったんです」
経験や勘に頼ってきた仕事を、誰もが活用できる仕組みに変えていく。それが自社で形になれば、その知見は業界全体にも活かせるかもしれない。そんな構想を描いている。
事業として成立するかどうかは、自分たちだけでは判断できない。まずは外の声を聞ける状態をつくらなければならなかった。ところが、そのための接点が会社にはほとんどなかった。
「ホームページの『お知らせ』欄が、ひっそり更新されるだけ。世の中から見たら、この会社、生きてんのか?という状態で。だから、まずは呼吸させようと思って」
noteでの発信を始めた。まずは従業員に読んでほしいという。社内にはいい取り組みがたくさんあるのに、部門をまたぐと「誰が何をやっているか知らない」。だから最初の読者は、従業員と、その家族だ。
次に、採用。ホームページだけでは見えない「働く人の姿」を、学生や、帯広・十勝で仕事を探す人に届ける。そして中長期では、同じ課題を抱える同業他社や、この業界に興味を持つ人まで。
発信を続ける中で、会社のことを自分の言葉で説明しようとすると、何度も手が止まった。進めるほどに、会社を説明する言葉が、まだ一本の軸に整理されていないという課題にも突き当たった。会社は何を大切にし、何を目指しているのか。共感できる言葉でなければ、働く人にも届かない。発信と並行して、会社の言葉を整理する取り組みも進めている。
東京と北海道、それぞれの暮らし

東京の暮らしはにぎやかだった。同僚と仕事帰りに飲みに行った。野球観戦が好きで、よく球場へ通った。イベントも多く、休日の過ごし方にも困らなかった。
帯広に引っ越してからの変化を尋ねると、生活の中身は、そう変わらないのだという。仕事をして、家に帰る。その日常は東京も帯広も同じ。変わったのは、飲みに行く回数が少し減ったくらい。移住記事にありがちな、輝く新生活はどこにもない。
週末は、車で札幌の家族のもとへ帰る。
「札幌まで車で帰るんですけどね。一人でボケーっと物を考えながら運転する、あの時間は結構いいんですよ」
今まで飛行機で6時間だったのが、車で2時間半に。家までの距離はずいぶん縮まった。
選択肢や利便性は都会に及ばない。冬は厳しく、夏は東京より過ごしやすい。どちらが優れているかではなく、その時期に何を大事にするかで、選ぶ場所は変わる。
「僕にとっては『家族の近くで暮らせること』。暮らしの価値は便利さだけではなく、誰の近くで、どのように時間を使いたいかによって変わると思っています」
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これだけ転職を重ねながら「良くなかったことは、ないな」と言い切れるのは、なぜなのか。そう聞くと、シンプルな答えが返ってきた。
「言っちゃえば、おもしろそうか、おもしろくなさそうか。それだけです」
プログラムを書く仕事から離れ、高い条件の仕事を見送り、大手企業という選択肢も手放した。そのたびに、自分が本当に大切にしたいものの輪郭がくっきりして、道が開けた。特別な才能だろうか。本人は笑って首を振った。
「頭が良くないから、できないことが多すぎただけですよ。捨てていったら、そこしか残らなかった。家族がいるので、お金の面だけはちょっと考えましたけどね」
最後に、地元に帰ろうかどうか迷っている人へ伝えることがあるとしたら、と聞いた。
「場所は、後なんだよな、やっぱり。何ができそうか。何をしたいか。その結果が、僕の場合はたまたま帯広だったというだけで」
▶︎Kさんが発信する、ズコーシャのnoteはこちら
Kさん (本人希望により匿名)
ズコーシャIT事業部 事業変革室
北海道東川町出身。旭川の高校を卒業後、農業機械の会社を経て、札幌の専門学校でITを学ぶ。東京のメーカー系ソフトウェア会社、札幌のIT企業、医療系事業会社などで約25年、システム導入や業務改革、サービスづくりに携わる。2025年10月、ズコーシャ入社。事業変革・新規事業開発を担当。趣味は歩くこと。毎朝グラス一杯のトマトジュースを欠かさない。