十勝に移住した人を「十勝移住物語」として紹介します。総務省の住民基本台帳・人口移動報告によると、コロナ禍に喘いだ2020年に東京を離れた転出者数は40万人を超えるのだとか。もっとゆとりのある生活を送りたい、仕事やライフスタイルの変化、経済的な事情など、移住の理由は十人十色。決して前向きな選択だけではないかもしれません。東京生まれ・市役所育ちの石曽根昂平さん(28)もまた紆余曲折を経て、めぐり合わせの北海道移住だったそう。ノンフィクションでたっぷりと語っていただきます。実録・YOUは何しに帯広へ!?
東京・練馬区に3兄弟の末っ子として誕生し、家族や兄2人に甘やかされて育ったという石曽根さん。専門学校を卒業後は、念願の地方公務員として社会人の一歩を踏み出しました。
「大好きな地元・練馬のために働きたいという想いと、東京2020オリンピックに携わる業務につけたらとの夢を描いて入庁しました。残念ながら練馬区役所には受かりませんでしたが、第2志望の横浜市役所では災害時の対応・防災の啓発業務など多くの業務を経験。約5年の市役所勤務のなかで社会人としての基礎を学び、諸先輩方には『想い』を持って仕事をすることのカッコ良さを学びました」(石曽根さん)
徐々に自分らしい仕事のやり方を見つけ、実りある社会人生活を謳歌していたという石曽根さん。ところが、あることをきっかけに退職を決意したといいます。
「ずばり、母の余命宣告です。青天の霹靂(へきれき)どころの衝撃ではありませんでしたね。ずいぶん悩みましたが慣れ親しんだ職場を離れて、母の介護をすることに決めました」
こうして市役所を辞め、介護中心の生活をスタート。20代半ばにして母親を看るとは想像もしていなかったと当時を振り返ります。けれど、どうやら未来へ進むきっかけを授けてくれたのもまたお母様だったようです。
「1年後に母が亡くなりました。悲喜こもごもありすぎて、自分は今ライフステージのどこにいるんだろうと思いましたね。でも、ただ悲しんでばかりはいられませんでした。次の職業として、クリエイターを目指す転機になったのも実はこの介護生活なんです。母と過ごす時間や空気感を記録しておこうと思いカメラとパソコンを購入。撮影・編集を始めところ、すっかりハマってしまい。独学で動画の技術を身につけ公務員から一転、フリーランスの映像クリエイターになっちゃいました(笑)」
その後、東京のご実家を離れて単身・帯広に移住されたとのこと。首都圏以外で暮らしたことのない都会っ子の石曽根さんがどうして北国へと???が止まりません。
「たまたまマッチングアプリで知り合った帯広在住の方とお付き合いすることになり、どこか違う場所で仕切り直したいと思っていた自分の気持ちともマッチングしたといいますか(笑)。そのパートナーとはお別れしてしまいましたが、帯広とはご縁があったようで仕事の声をかけていただいたりと、ようやく軌道に乗り始めたところです」
いくら帯広が気に入ったとはいえ、雪国での生活はそう甘くはないはず。石曽根さんが感じる帯広の良いところ、苦手なところを聞いてみると、斜め上をいく回答が……。
「月並みですが、良いところはドーンと広がる大自然と人の温かさですね。『北海道の台所』と呼ばれるだけあって、肉や野菜など食べ物が美味しいのも帯広の魅力です。苦手なのはやっぱり、雪と真冬の凍えるような寒さ(笑)。ただ、玄関が冷蔵庫代わりになったりもするので、節約だと思ってなるべくポジティブ変換するようにしています。
あとはときどきホームシックになったりもしますが、実は帯広空港$301C東京間(羽田空港)には直行便があるので、帰りたくなったらわりと簡単に帰れるんですよ。東京の友達も観光を兼ねて遊びに来てくれますし。移住したからといって、できない我慢はしません」
移住者だからと気負いすぎず、適度に力を抜きながら等身大の生活を楽しんでいる様子の石曽根さん。意外とそのおおらかなマインドが、移住を成功させる秘訣かも!?
1995年生まれ、東京都出身。地方公務員として市役所に5年ほど勤務し、区の防災や予算管理などに従事するも母親の介護のため離職。2021年より単身で帯広市へ移住。フリーランスのクリエイターとしてYou tube・結婚式・アニメーションなどの動画制作、名刺・POP・サムネイルなどの制作を行う。趣味は旅行とアニメ。仕事の依頼・問い合わせはホームページ(https://sites.google.com/view/ishisonek)まで。