十勝に移住した人を「十勝移住物語」として紹介します。2022年は帯広開拓の祖「依田勉三」が、十勝帯広に入植して帯広市の開拓140周年、市制施行から90周年だったことをご存じでしたか?つまり、先人たちの努力と知恵を支えに大自然の険しさや戦争を乗り越えていった帯広は、十勝・東北海道の中心都市として繁栄し、北海道のみならず我が国が誇る、食と大自然の豊かさを象徴するまちとして今もなお発展を続けています。
昨年、帯広市ではこの記念すべき年をさらに彩るために、様々な催しが行われ、11月には記念式典が実施されました。なかでも注目すべきは、十勝帯広の豊かな歴史を次世代に受け継いでいくような取り組みです。まず一つ目として、市はウェブ上でデジタルアーカイブを公開しており、こちらでは「帯広百年記念館」が所有する歴史資料(写真・古文書など)のデジタルデータをだれでも閲覧することができます。永さんは、これまで多くの土地での生活を経験してきたそうです。
気になった人はぜひ閲覧してみてください。
また、その帯広百年記念館では昨年8月から9月にかけて、特別企画展『晩成社展』を開催していました。残念ながらもう終了してしまいましたが、ここでは帯広・十勝開拓の先駆者「依田勉三」と、彼がおこした「晩成社」の苦難と活躍が歴史的資料とともに展示されていました。この「依田勉三」と「晩成社」については記事の後半で詳しく扱いますので是非最後までご覧ください。
もう一つ、一風変わった取り組みを紹介しましょう。
帯広の大切な歴史を後世に受け継いでいくためには、何より子どもたちに帯広の歴史について興味を持ったり、親しんだりしてもらうことが必要不可欠でしょう。そのための取り組みの一環として、帯広で幼稚園や保育園を経営する学校法人の「帯広葵学園」では、毎年卒園する園児たちに「光る泥だんご」を作ってもらい、静岡県の伊豆半島にある松崎町にてそれを展示してもらう、という催しを実施しています。
この記事を読んでいる読者の方々は疑問に思われるでしょう。
いったいなぜ帯広から遠く離れた町でこのような変わった取り組みが行われているのでしょうか。一つは、松崎町と帯広市は姉妹都市の関係にあることが挙げられます。この遠く離れた二つのまちは昭和53年より「開拓姉妹都市」として提携が結ばれたときから長くにわたり交流してきました。
というのも実は、帯広開拓の父、依田勉三はこの町の出身なのです。そして、「光る泥だんご」はこの町の伝統工芸品である「漆喰」を使用した技術を用いて作られているのです。令和3年度からは、この光る泥だんごは「松崎町みどりの少年団」が作った泥だんごとともに展示されています。そのほかにも、毎年夏休みには小学生の相互派遣が行われています。依田勉三翁によって結ばれた二つの都市の「縁」は今でも子どもたちの間にしっかりと受け継がれているのです。
さて、十勝開拓の祖である「依田勉三翁」についてご紹介しましょう。依田勉三は、ペリー来航の嘉永6年(1853年)5月15日、伊豆国那賀郡大沢村(現在の松崎町)の豪農依田善右衛門の三男として生まれました。勉三は幼くして両親と死別してしまい、兄の佐二平に養育されることになります。7歳のころから漢学者の養伯父土屋宗三郎(三余)が開いていた「三余塾」で漢籍を学んでいました。
その後に「謹申学舎」(塾長は元会津藩家老西郷頼母)に入塾。
そこで、幕末の二宮尊徳が幕府から蝦夷地開拓の要請を受け、その門下生の大友亀太郎が開墾事業に活躍したことや函館戦争で官軍に敗れた榎本武揚の「蝦夷共和国」構想の話などを聞いて刺激を受けたといわれます。後、上京し、明治7年(1874年)、22歳のとき慶応義塾に入学し、あの福沢諭吉のもとで学びます。
このとき福沢諭吉は独立自尊を説き、人口激増・食料不足を補うために北海道を大いに開拓すべきことも語ったようです。しかしながら、脚気と胃病を患ってしまった勉三は慶應義塾を中退し、故郷で塾を開いていたところ、「くず屋にでも捨ててください」と預けられた古雑誌の山の中から、運命を決める一冊の本と出合います。
それが、北海道開拓使が最高顧問として招いたホーレス・ケプロンが、北海道の産業政策としてまとめた「ケプロン報文」です。
7条に分かれていたその報告書には「北海道の広大たるやアメリカ西部の未開拓に等しく、その財産は無限の宝庫。政府は信頼のおける人民を移住させるべし」などと書かれており、勉三はこれによって北海道開拓に生涯を賭ける決意を固めたといわれます。
勉三は明治14年(1881年)8月17日、28歳のとき、単身北海道へ渡り現地調査をし、伊豆に帰ると、十勝が将来性に富む土地であることを一族に力説しました。
そして、明治15年(1882)1月、北海道での農場建設を目的とする「晩成社」を設立したのです。資本金は5万円、今日の150億円に相当する大金で、社長は兄の佐二平、勉三は副社長でした。社名は「大器晩成」に因み、開拓には長い時間がかかるが、必ず成功してみせるという願いをこめたそうです。
このとき、幹部として勉三に協力した渡辺勝と鈴木銃太郎は、ワッデル塾という塾で英語を学んでいたころからの親友でした。つまり、有名な「屯田兵」などではなく、民間の事業者が開拓を主導したというのは北海道内ではほかに見られない例であり、これによって現在の十勝地方の独立した風土が形作られたと言えるでしょう。
札幌県庁にて開拓の許可をもらい、7月16日に十勝国河西郡下帯広村(現在の帯広市)を開墾予定地と定め、鈴木銃太郎を残し勉三は一時伊豆に戻り、渡辺勝は静岡で移民の募集をしていました。翌明治16年(1883年)4月に晩成社移民団は横浜を出発し、14日に函館に到着し、そこから海陸二手に分かれ帯広へ向かい、1か月後の5月にようやく帯広に着きました。
しかし、そこからは苦難の連続でした。帯広に入った一行をまず鹿猟のための野火(野焼きの火)が襲い、続いてバッタの大群が襲いました。食料としてアワを蒔くも、天候の不順や野生動物の被害にあい、ほとんど収穫できませんでした。翌年、翌々年も開墾は進まず、農耕の機械化なども試みますがうまくいかず、当初の移民は3戸にまで減ってしまいました。状況は明治25年(1892年)ころになってようやく好転し、小豆・大豆の収穫の目処も立つようになりましたが、当初立てていた15年で1万町歩の土地の開墾という目標には遠く及ばず、30町歩に10年を要することとなってしましました。
その年に晩成社の事業を拡大して合資会社とし、函館に牛肉店を開業し、当別村に畜産会社を作りました。また、帯広には木工場を作り、生花笛(オイカマナイ。現在の大樹町)に牧場を開きました。明治35年(1902年)にはバター工場を創業し、缶詰工場や練乳工場なども開いたのですが、こうした事業は経営としてはほとんどうまくいきませんでした。しかしながらこれら事業はみな、現在の十勝。帯広に根付く産業となっています。
結局、大正5年(1916年)にいくつかの農場を売却することで晩成社の活動は事実上休止してしまいます。それでも、大正9年(1920年)11月に、勉三は途別農場での稲作の成功を記念して祝宴を開き、すでに晩成社を離れてしまっていた鈴木銃太郎や渡辺勝など、晩成社同志12人が顔を合わせて、勉三の成功を心から祝ったといわれます。
この時、勉三は68歳になっていました。しかし、大正14年(1925年)に勉三は中風症に倒れ、9月には勉三の看病をしていたサヨが亡くなり、伊豆から故郷で療養させるため離婚していた元妻リクが駆けつけるのですが、口論となって12月には伊豆に戻ってしまいました。大正14年(1925年)12月12日、帯広町西2条10丁目4番地の自宅で静かに息を引き取りました。亨年73歳でした。十勝開拓に45年もの歳月を捧げた依田勉三は、「晩成社にはなにも残らん。しかし、十勝野には・・・」と語りました。
晩成社の開拓は結局事業としては成功することがなかったのですが、依田勉三をはじめとした開拓者たちの様々な困難を耐え抜いた粘り強い意志は、十勝帯広の開拓の礎を築いたものとして、現在では大変高く評価されるようになりました。
その一つとして、前述の「ひとつ鍋」以外にも、十勝で有名なお菓子として、依田勉三にあやかったものがあります。それが、かの有名な「マルセイバターサンド」です。
前述のとおり、明治35年に晩成社はバター工場を創業し、晩成社の「成」の字からとった「マルセイバタ」のブランドで商品化しました。残念ながらマルセイバタは大正7年(1918年)を最後に、採算が取れなくなったことから販売停止となってしまうのですが、現在では北海道の代表的銘菓となった六花亭の「マルセイバターサンド」は北海道で初めて商品化したバターである「マルセイバタ」にちなんで名づけられたものであり、その特徴的なレトロな包装は当時のマルセイバタのラベルを復刻・再デザインしたものです。
2019年に「連続テレビ小説」の第100作記念として放映されたNHKの『なつぞら』ではこの六花亭やもう一つの帯広の有名な菓子メーカーである「柳月」をモデルにしたと思われる「雪月」が登場しますが、4月11日の放送では「晩成社」も登場しました。
というのも『なつぞら』は東京で戦災孤児となった主人公の“なつ”が十勝で酪農を営む柴田家に引き取られ、成長していく様子を描いた物語であり、随所で十勝酪農の歴史について描かれているのです。このような注目を浴びるドラマの中で十勝の酪農や開拓の歴史についてしっかりと触れられているのはとても喜ばしいことであり、これをきっかけに十勝・帯広への注目度はますます上がってきているといえるでしょう。
十勝開拓の希望を胸に抱いてやってきた依田勉三率いる晩成社の一行に待ち受けていたのは、十勝の大自然のもたらす苦難に次ぐ苦難の連続でした。しかし、その中でも決してあきらめずに開拓を続けた勉三の精神を象徴するものとしてこのようなエピソードがあります。
イナゴや獣、干ばつの脅威や耐え難い寒さ、そして食糧難による飢えという非常に厳しい状況下で、ある食事の場で渡辺勝が自分たちの苦境を嘆いて「落ちぶれた極度か豚とひとつ鍋(豚と同じ鍋の食事をする)」と詠んだのを、勉三はすかさず毅然とした態度で「開墾の始めは豚とひとつ鍋」と改めたそうです。
この歌は今日も広く知られており、現在はこの話をモチーフにした鍋型のもなか「ひとつ鍋」が帯広の製菓「六花亭」から発売されています。
さて、このような先人たちの苦難の上に成立した現在の帯広はどのような都市へと発展したのでしょうか。
人口はピークだった2001年の17万5174人から年々減ってきてしまってはいますが、農業を主とした産業基盤を背景に、十勝管内のほかの都市と比べてその減少率は緩まってきています。2020年末には釧路市を上回り道内5位の人口となり、昨年9月末時点では16万4378人となっています。
では産業はどうでしょうか。
農林水産省の2020年のデータによると、農業産出額は254億8,000万円と道内市町村内で8位、耕種(畑作物や園芸作物)に限ると181億9,000万円で道内2位の規模を誇ります。この耕種、小麦、ジャガイモ、豆類、ビートの4品目と、ナガイモ、ダイコンなどの野菜が中心となっており、「十勝川西長いも」や「大正メークイン」など、高品質として知られるブランドも数多く保有しています。このような結果の陰には、長年にわたる開墾や基盤整備、土壌改良などの先人たちの努力があることを忘れてはなりません。
帯広の魅力は農業だけではありません。東洋経済新報社が独自に発表している「住みよさランキング2022」で、帯広市が2年連続、北海道でNo.1を獲得しました。
この「住みよさランキング」は、全国812の市と特別区を対象に、独自の20の公的指標を「安心度」「利便度」「快適度」「富裕度」の4つに分け、偏差値を算出した上で発表しているものであり、名実ともに、帯広が北海道の中でも安定してトップだと胸を張って言えるのではないでしょうか。
十勝・帯広の零年から140年。「住みよさランキング1位」となった帯広市 民間の開拓団の辛抱強い努力と継続の上に成り立ってきたこの十勝帯広という住みよいまちへの移住を検討してみてはいかがでしょうか。数知れない人々の苦労が染み渡った大地と、果てしなく広がる青空の下で暮らす日々は、きっと皆さんの人生をより豊かなものにしてくれるでしょう。